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宇野千代先生

宇野千代先生と横田伊三郎(1988年工房にて)

宇野先生のプロフィール

明治30年山口県玖珂郡(現岩国市)生まれ。教員を経て大正10年『時事新報』の懸賞短編小説『脂粉の顔』で作家としてデビュー。尾崎士郎をはじめ、東郷青児、北原武夫と、多くの芸術家との結婚遍歴は波瀾に富み、編集者、きものデザイナーとしても活躍する。晩年に到るまで旺盛な活動を続けけ、女性実業家の先駆者としても知られる。

出会い

昭和33年工房3代目伊三郎の時、染織家長谷田桐翠氏の紹介により宇野先生よりきもの染色の依頼を請ける。

宇野千代小紋誕生

スタイル社の倒産で大きな借金を背負った宇野先生は、白生地を1反買って自らデザインした小紋を染めた。その小紋が売れるとすぐに2反染め、2反が4反、4反が8反というように次第にきものの仕事が大きくなっていった。デザインの斬新性と特徴的な色使いもあって、きものの仕事で成功するようになった。

古い注文書

工房に古い注文書が残っていました。宇野千代先生直筆の注文書で便せんに几帳面な鉛筆書きで書いてあります。内容から推測すると、おそらく昭和30年代のもので、晩年の先生は3Bとか4Bとかの柔らかい鉛筆で執筆されていましたが、このころはHBとかBというような少し硬めの鉛筆を使っていたようです。宇野千代きもの研究所と印刷された便せんに丁寧に特徴のある筆跡で書かれ、色見本の小布が貼ってあります。宇野先生の几帳面な性格が出ているように思います。当時にはこのような注文書が毎週のように届いて板のでしょうが、現在残っているのはこの一冊だけでいまとなっては残念です。

淡墨の桜

樹齢1500年、継体天皇お手植えの伝説を持つ淡墨の桜は日本屈指の桜として有名ですが、昭和40年頃ではあまり知る人はありませんでした。

昭和42年4月、宇野先生は作家の里見とんさんの那須の別荘で友人の小林秀雄さんと会いました。小林秀雄さんも大の桜好きのひとでしたが、その時淡墨の桜の話をされたのでした。その話から宇野先生の虫が動き出しました。虫が動きだすとわき目もふらず駆け出すのがいつもの宇野先生でした。すぐに根尾へ飛んでいった経緯は「生きていく私」にも載っています。

名桜の無惨な姿に驚いた先生のそれからはまさに千代流でした。役場に行きいろいろ調べ、以前にもこのような淡墨の桜を再生した前田医師もことを知り、桜復活のため様々なことをはじめたのでした。小説「淡墨の桜」のも載っている募金もその一つで実際に集め始めました。後になって同業の富田染工の富田さんが「小説に載るのが分かっていたらもっと出しておけば良かった。」と言うような笑い話もありました。実際にはその募金を使うことなく、岐阜県が淡墨の桜再生に大きな力を果たしてくれました。

ほとんど知る人もなかった淡墨の桜が有名になり花の時期には大勢の観光客が集まるようになりました。鉄道のなかった根尾には樽見鉄道が延長され、先生が投宿して住吉屋さんは釣り宿から大きなホテルになりました。淡墨桜の周辺は淡墨公園として整備され春の一大観光名所になったのでした。